第1話:すべてを削ぎ落とす決意――おひとりさまライフシステムの始まり

ネットの片隅で、私はひとりの「探究者」として、新しい仮面を被ることに決めた。
名前は、安堂玲子。
これから自分の人生という複雑なシステムを徹底的に解体し、再構築しようともがいている「おひとりさまライフシステム」の探究者だ。

世間一般の言葉を使うなら、これは「終活」であり「デジタル・ダウンサイジング」なのだと思う。
けれど、よくある『シニアのための穏やかなお片付け』なんて生ぬるい言葉では、私の胸には1ミリも響かなかった。

なぜなら私は、世間がいうところの、文字通りの「究極のおひとりさま」だからだ。
きょうだいはいない。ひとりっ子だ。そして、ずっと独身のまま生きてきた。
つまり、私の後ろには誰もいない。私が倒れれば、そこで安堂家のラインは完全にストップする。

時計の針を少し巻き戻す。
2021年、父が他界した。それが、私が「人間の死」と正面から向き合った最初のきっかけだった。
今後くるであろう母のこと、そして私自身のことも考えておかなければならないと思った。

調べてみて「終活アドバイザー」というものがあることを知った。資格をとるのが好きな私は、早速通信教育を受講したのだが、テキストを開いて学んでいるときに、私は強烈な違和感を覚えていた。
そこに書かれているノウハウは、どれも「遺される家族や子供がいる一般家庭」を前提としたものばかりだったからだ。思い出の品を誰かが引き継ぎ、持ち家を誰かが相続してくれる――。

「ひとりっ子で独身の私には、引き継いでくれる人も、引き継ぐべき持ち家もないのに」

あまりにも現実とかけ離れていて、どこか他人事のまま、資格の証書は引き出しの奥へと仕舞い込まれた。私はまた、のほほんとした日常のルーティンへと戻っていった。

私がいま暮らしている実家は、郊外にある自然豊かな、そして古くて広い賃貸団地だ。
窓を開ければ緑が溢れている。けれど、私の心は違った。私は昔から、緑豊かな大自然よりも、整備された都会のコンクリートジャングルを愛するタイプなのだ。

利便性の高い街で、機能的なマンションの上層階に住み、駅の近くをサクサク歩く。
持ち家は持たない。一生賃貸で、身軽に、自分の足形だけを残して生きていく。それが私の理想だった。

そんな、郊外の古い団地からの「脱出」を夢見ながら、のほほんと暮らしていた私に、運命の濁流は突然やってきた。

2025年12月。母が急逝した。
あまりにも突然の別れだった。バタバタと葬儀を済ませたが、どこか現実ではないような感覚でいた。だが、時の流れは止まってくれない。

一人には広すぎる3DKの賃貸団地で今までと同じように仕事に行く生活を続ける中で、ある時、愕然とした自分がいた。

(ああ、私は本当に、ひとりぼっちになったんだ)

そして、冷徹な問いが脳裏に突き刺さる。
「もし今、私が急に倒れたら、この部屋の荷物と、私の後始末は一体誰がしてくれるのだろう?」

部屋を見渡せば、母のものはもちろんのこと、私自身の膨大な書籍、お気に入りのテレビ番組を録画したブルーレイディスク、仕事の書類など。

そして思い出。

私が明日死ねば、これらはすべて「誰の手にも負えない、ただの巨大なゴミ」と化す。

その瞬間、生存戦略のスイッチが、カチリと音を立てて切り替わった。

終活アドバイザーとして勉強したことは、今の私にはまったく当てはまらない。私は、私自身のこれからのライフシステムを、自分の手でゼロから設計し直さなければならない。

目指すべき究極のゴールは決まった。
この古い団地を脱出し、大好きな都会のコンクリートジャングルで身軽に暮らしながら、これからの人生後半戦において、「お金」「住居」「仕事」のすべてを戦略的に運用し、この世を去るその瞬間には、完璧に綺麗に、何も残すことなく美しく消え去ること。

これこそが、私の掲げる「究極のおひとりさま情報整理術」だ。

物理的な持ち物は70%削減する。一人暮らしの身の丈にあったサイズの部屋に移る。溢れかえった録画データを1つのシステムへ統合する。住まいも、資産も、すべてを身軽な体躯へダウンサイジングしていく。

私は今、その壮大な実験のスタートラインに立っている。
一歩進んでは右往左往し、最適な答えを探して泥臭く試行錯誤を繰り返す日々。
このブログは、完璧なプロの助言集ではない。ひとりの「おひとりさまライフシステム探究者」が、自らの人生を実験台にして紡ぐ、身軽な自由を勝ち取るためのドキュメンタリーである。

(第1話・了)